森を抜けて駆けていく

クラシックの話、時々アウトドアの話。

日本フィルのブルックナーの8番を聴きに

1/21の日フィルのブルックナーの8番を聴きに、サントリーホールへ。
 前日に電話でチケットを購入。その時にオペレーターに紹介された席で了解したら、そこがいわゆる「雨宿り席」(二階席の真下の一階席で、天井が低くなっているところ)であることが判明し、少し気落ち。
 
 13時から曲目紹介のプレトークがホールであるというので、その時間にあわせて赤坂へ。サントリーホールに行く時はいつも溜池山王駅を使うけれど、いつも出口がどれだかよくわからなくなってしまう。
 プレトークは自分の席で聴いた。ベートーヴェンワーグナーの影響を丁寧に説明してくれていた。
 ブルックナーを生で聴くのは、昨年のN響の2番(パーヴォ指揮)以来二回目。
 席は心配していた程雨宿りでは無かったので、とりあえず一安心。まぁユースチケット使って1500円で聴けるんだから、ぐうたら言うこともない。
 
 演奏は、、、疲れた。
 大好きな曲だからかな。集中して聴き続けたいけど、やはり途中で気持ちが切れる瞬間があった。
 根本的なことだけど、他の人たちが演奏中どんなことを考えているのかってあまり聞いたことがない。もちろん音楽世界に没頭できる人もいるかもしれないけど、僕は結構、いろいろと考え事をしてしまって、「あれ、いつのまにこんな場所まできていたのか」と後悔することがある。
 
 特に、ブルックナーに関して言える事かもしれないけど、音楽を聴く時には、「狭い視野」か「広い視野」かどういうスケールで聴くかを迷ってしまう時がある。狭い視野というのは、ここのティンパニーのクレッシェンドはどうかとか、木管の歌い方がどうかというのをその時その時感じ続けることで、「広い視野」はシンフォニー全体から俯瞰するように聴くイメージである。
 
 指揮者はもちろん後者を重視していると思うけど、聴く方はなかなかそれは難しい。どういう音楽世界なのかは聴き終わらないと全体は知り得ないからである。かといって、クライマックスが終わって拍手している間、全体を具体的に俯瞰しながら振り返ることができるかというとそれはとても難しい。
 
 85分余りの世界をぎゅっと自分の中で凝縮して理解する。どこどこがどうだった、こうだったではなく、全体としてどうなのか。でもそれもおいそれと形容詞で説明できない複雑なものである。音楽同様、時間とともに風化とも発酵とも言えぬ何か熟成が自分の心の中で起こるのである。
 こういう風に哲学風なことを帰りの地下鉄の中で考えさせること自体が、音楽の偉大なところでもある。
 
 演奏はいつも聴いているブーレーズの8番と比べてテンポが遅く、でも本格的ドイツサウンドなので、聴き応えがある。でも集中力が途切れてしまう…
日フィルは何回目かな、、今までは思わなかったことだけど、管楽器の技量に少し難点をおぼえた。音程や音色が流れの中にない、空気を読んでいない演奏者がいたように感じた。具体的に例をあげてしまっては申し訳ないが、冒頭のホルンにはがっくしきた。あとセカンドとサードトランペットも。。
 
 帰りがけに神保町によった。古本を4冊ほど。
 サントリーホールは改修に入ってしまうから、しばらくは来ないだろう。冬の木枯らしを肌に感じながら、頭には暖かみのあるサントリーホールの照明が浮かんでいた。